3.11
あの日、埼玉にいると思ってた兄が松島基地に単身赴任してて、基地が津波にやられて壊滅、戦闘機が建物に突っ込んでる映像がメディアで繰り返し流されていた。
この時、松島基地の隊員のみなさんは、すぐに救助に動かなければならない自分たちが全く身動きが取れない悔しさ情けなさで泣きながら救助の中心になる滑走路の泥を寒さの中で不眠不休の人力作業で短期間で使用可能にしました。
その間、暖房もない施設内で交代でずぶ濡れのまま仮眠、休憩をしたそうです。
自宅が津波にやられる映像をテレビで見た隊員、子供を預けている保育園が津波で跡形も無くなってるのを見た隊員、身内の安否もわからない地元の隊員、みなさん泣きながら基地機能回復を優先させ、目処がたった時点で階級が下の隊員から順に身内に連絡していったそうです。
兄の安否がわかったのは1週間後、兄の同僚の方が奥様にしたメールに兄の名前が出てきたと連絡があり。
兄から直接連絡があったのは2週間後くらいだったと思います。
会えたのはそれから10ヶ月後。震災発生からほとんど休みなしで救助活動、復旧作業などをしていたそうです。
活動内容は一切口にしませんでした。とにかく酷かったと。
兄は元々戦闘機乗りでしたが配置替えを申し出て救助活動の部隊にいきました。新潟地震でも救助活動をしてまして、航空自衛隊新潟救難隊にも所属してました。
人が嫌がる仕事を率先してやる人なので、震災現場でも経験者でもあり前線へ出て色んなものを見たんだろうなと思います。
松島の親戚は家が半壊でしたがみんな無事で安心しました。
今日は震災の犠牲になられた方々のご冥福を祈るとともに我々を守ってくれている自衛隊の皆さんに感謝する日でもあると思います。
午後2時46分から1分間の黙祷です。